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10年後の広告はどうなっているか(10)

火曜日, 8月 25th, 2009

このテーマをまず設定しておいて、折に触れて考えたことを取り留めもなく書き綴ってきました。やって見ると、自分ではけっこう頭を刺激する結果になり、面白かったのですが、読み手にはつまらなかったかな、と反省しています。このテーマ、まだまだ折に触れて取り上げたいと思いますが、このあたりで、いったん箇条書き風に10年後の広告について予想されることを、ランダムにリストアップしておきます。

 

1)    情報共有感覚の大きいマスメディアが次第に衰退し、広告の社会的なインパクトもそれに伴って低減せざるを得ないでしょう。ひとつの広告キャンペーンが社会現象を捲き起こすようなことは20世紀の語り草、昔話でしかなくなるでしょう。

2)    多くのターゲット人口に到達する媒体計画(広告露出計画)も、大規模調査(媒体接触調査)に基づいたシミュレーションプログラムで静かに実施され、社会的な熱気を伴わないでメッセージが浸透するようになるでしょう。

3)    食品などの低関心商品を、プッシュ型媒体手段で強力に広告する手段はなくなるでしょう。これに伴ってスーパーマーケット等、小売店の店頭の持つ媒体的側面が注目されるようになるでしょう。

4)    社会的インパクトを求めるキャンペーンは、販促的、広報的イベントに解を求めるようになるでしょう。広告代理店で、これまで縁の下の力持ちに甘んじてきた販促マンの地位が上がると思われます。

5)    商品情報の多くは、消費者側が検索してアクセスするものになり、広告主にとって消費者が容易にアクセスできるように情報環境を整えることが重要になるでしょう。

6)    将来も吸引力、訴求力を持ち続ける広告のいくつかの類型を挙げると:-

i)                     男女の愛にまつわる感情を引き出す表現など、人間の本性にアピールするものをもった広告。プッシュ型媒体でなくても、高い注目度を発揮できる。

ii)                   問題解決型商品の広告。ただし、注目するのは当の問題を抱えているターゲット層に限定される。「痔にはボラギノール」というシンギングCMは軽い痔の症状のある人にも訴求力があると思われるが、それは強力なプッシュ型媒体があればこその話である。プッシュ型媒体の無い世界では、痔の治療薬の広告は本来の問題解決型に立ち帰って行くと思われる。

iii)                  ビッグニュース、つまり画期的新商品の告知。

自然の恵み

水曜日, 8月 12th, 2009

5月20日のこの欄で、カツオのお話をしました。言い訳がましいですが、その後の経緯です。

「カツオが出てきましたね。」

と、銚子の隣のご隠居に言ったら、

「もうちょっと待つと、1本500円になるよ。エラを開けてみて、きれいな赤い色をしたヤツを買うと良いね。」

というので素直に待っていたら、ナント店頭からカツオが消えてしまったのです。会社の皆さんにカツオ・パーティーの話などした手前、ちょっと困りましたね。集団で北の方に回遊しているかも知れないと思い、茨城県那珂湊の魚屋さんに電話してみたところ、

    「カツオねぇ。うーん。日によって分からないねぇ。」

 

どうやらカツオさんたちは、今年は予定を変更してどこか別の海域に行ってしまったらしいのです。その代わり、と言ってはなんですが、カツオの餌食にならなかった連中でしょうか。丸々と太ったイワシがタダのような値段で店頭に出ています。また、銚子地方では今年は何故かメロンが大当たり。週末に訪れるたびに、4個入りの段ボールで買ってきてはご近所に配ることができました。

 

「大自然の恵み」などと言いますが、自然は気まぐれなんですね。都会に暮らしていると、何でもスーパーマーケットに並んでいて、今年は何が豊作だとか、今日は何が大漁だという情報がじかに伝わってきません。田舎(というと叱られるか?)の生活はそうではありません。スーパーマーケット全盛の時代とはいえ、自然の息吹が伝わってくるような食材と、日々ご挨拶しながら生活する楽しみが残っています。

 

これで気がつくのは、われわれの食生活には、市場に行ってその日に収穫または水揚げされた食材を基にその日の献立を考えるという、昔ながらの習慣が根強く残っているらしいことです。何でも揃っている都会のスーパーで買い物する人は、まず、メニューを決めてから足りない食材を手当てすれば良さそうなものです。しかし、まず店頭を見て、その日のお買い得食材によってメニューを決める、という形でマルシェ方式が残っているように思われます。今日は豚肉がたくさん採れたから安くて新鮮、ということはないにしても、少なくともお魚に関する限り、お買い得商品イコール大漁で新鮮な商品、ということが言えるかも知れません。

10年後の広告はどうなっているか(9)

水曜日, 8月 5th, 2009

広告業界でも人員整理の動きが目立つようになりました。まだ外資系企業が中心ですが。外資系の代理店では業績に即して社員の数を調整する傾向があるので、何とも言えませんが、聞き及ぶリストラのスケールから判断すると、何か根本的なことが起きている、と言う気がします。企業合併、提携、外注先の締め付けなども平行して行われています。

 

数年前から世界のマスコミ業界で起きていることは、伝統を誇る著名企業の売却や合併です。何か大きな構造変化がこの世界を揺り動かしているに違いありません。これまでのマスコミは、新聞にしてもテレビにしても、情報流通手段が大型化して新規参入が困難な状態が続いてきました。流通手段が寡占化したから、コンテンツ提供の総合化が行われ、巨大産業にのし上がってきました。

 

現在進行中の現象は、それの解体化ではないでしょうか。なにしろ、これまで巨大投資が必要で新規参入できなかった情報流通手段がタダになってしまったのです。これの意味するところは大きい。巨大輪転機も空にそびえるテレビ等も無用の長物になってしまうのです。独占的資産が、やっかいな負の資産になったらたいへんです。

 

誰でもタダで情報を発信できる時代が来ています。変化は不景気のせいで起きているのではなく、根本的にモードチェンジが起きていると考えるべきです。消費者はニュースから連載小説、料理レシピから旅行案内までなんでもありの情報総合商社から、不要なものを含めて一括購入しなくても、欲しいものをバラ買いできる時代になった、と言えます。

 

さて、マスコミがこうなってくると、広告はどうなるか。広告はマスコミに寄生して大きくなってきました。情報流通が解体すると、広告もそれに見合った寄生虫になってゆかねばなりません。大きな宿主には大きな寄生虫の生存が許されますが、解体した宿主にどう寄生すれば良いのでしょうか。情報流通の形態がどうなってゆくか、見守っているうちにジリ貧になっているのが現在の広告業と言えないでしょうか。

瓜いろいろ

水曜日, 7月 29th, 2009

30数年前だったと思います。実家が茨城県大洗の漬物屋だという人に「鉄砲漬」というものをお土産にもらいました。白瓜の醤油漬なのでしょうが、瓜をくりぬいた中に紫蘇と唐辛子が入っていて、実に風味の良いものです。さいきん、成田山にお参りしたときも、鹿島神宮に詣でたときも、参道のお店に鉄砲漬があるのを見て、それがこの地方の特産品であることを知りました。

 

だからといって、この辺りのスーパー店頭に白瓜があるわけではありません。時として「ハヤト瓜」や「ハグラ瓜」というのが出ていますが、これはやっかいな代物です。うっかり糠みそに漬けると糠床が水浸しになってしまうほど、水分が多いのです。ともあれ、千葉県東北部から茨城県鹿島地方の地質と風土が瓜の栽培に適していることは昔から分っていたとみえます。ただし、銚子できゅうりを栽培するのは気をつけないといけない。風の強い地域なので、ふつうに添え木仕立てにすると、強風のときに添え木ごとなぎ倒されてしまうからです。だから、どうしても銚子できゅうりを栽培したい人のために、地這いきゅうりという特別な品種があります。

 

さて、いまこの地方で盛んに栽培されているのは同じ瓜科の作物でも単価の高いメロンです。メロンと言えば、ハウス栽培のマスクメロンを連想しがちですが、このあたりのメロンづくりは、露地栽培とハウス栽培の中間的な手法が主なやり方のようです。畑の畝にかまぼこ型のカバーをかけて栽培しています。かまぼこの裾の方が開放されていて、メロンが転がっているのが見えます。品種もいろいろ開発されていて、アンデスメロン、クインシーメロン、タカミ(貴味?)メロン、ミラクルメロンと、それぞれ持ち味を競い合っているようです。

 

各種賞味してみましたが、タカミメロンと言うのはマスクメロンに近くて、かなりいけます。ダンボールに4~5個入ったやつを買ってきて、ご近所に配るとけっこう喜ばれます。ただし、重くてゴロゴロするので、手にぶら下げて電車に乗ったりするのは、あまり嬉しいものではないでしょう。ありがた迷惑と思われてはいけない。これが会社の皆さんにメロンを配らない理由です。

10年後の広告はどうなっているか(8)

水曜日, 7月 22nd, 2009

この前の「広告の対流通デモンストレーション効果」の項に付け加えたいことが一つあります。どこで読んだか、あるいはどこかで聞いたか、忘れましたが、あるとき、松下幸之助翁が「うちの広告はナショナルチェーンストアのご主人が見てくれればそれでええ」と言われたそうです。まさに広告の対流通デモンストレーション効果です。

 

テレビ番組「水戸黄門」を何十年間も単独スポンサーしたのも、電器屋のオッサンにはこれに勝るものはない、という信念があったのでしょうか。「♪明るいナショナル、♪明るいナショナル、♪ラジオ、テレビ何でも揃う」というCMソングも消費者にナショナルチェーンストアの品揃えが良いことを言っているように見えながら、実はお店のオッサンに「品揃えをしっかりしてね」と言っていたと理解すると、理屈が合ってきます。

 

街で人気者のオジサンがやっている小売店を特約店にすれば、品物が売れる。小売店に配貨されていない品物は売れない。店頭の在庫としてあれば、オジサンが何とか売ってきます。経営の神様、松下幸之助翁はこの広告の副次的効果が当時の松下電器にとってはメインの目的だったことを指摘されたわけです。広告がいわゆるディストリビューションの強化に役立つことがよく分かります。しかし、10年後に主要媒体となっているだろうウェブは、広告の副次的効果をメインの目的として使うほど強力に発揮できるでしょうか。

入梅イワシ

水曜日, 7月 15th, 2009

千葉県の九十九里だけで使われる表現なんでしょうか。ところは九十九里最北端の飯岡の大衆割烹。早めの夕食を摂っていたら、五十がらみの男性が数人、隣の席に陣取って酒を飲み始めました。刺身の盛り合わせを取り、

      「イワシはないのか。」

と聞いています。

「あいにくです。」

「入梅イワシだ。探してきてくれ。」

店のおばあちゃんがイワシを仕入れに出かけます。まさか船で漕ぎ出すわけではないだろうと思っていると、間もなく帰ってきました。近所の漁師を訪ねたのでしょう。

「ありましたよ。生姜にするかね、にんにくにするかね。」

 

聞いていて、わかったこと。梅雨どきのイワシは特別においしいらしい。それに、イワシの刺身は生姜醤油のほか、にんにく醤油で食べる手があること。ふーむ、入梅イワシか。初耳だねぇ。

 

あくる日、スーパーに行ったらイワシがいました。捕れたてのようにツヤツヤして、目玉も黒い。丸々した中型のマイワシが6匹で200円。漁師の家で買ってきたわけじゃないからねー。2パック買ってきて、頭とワタを取って煮てしまいました。食べてビックリ。やっぱり刺身にするべきでした。しかし、煮てもうまいなぁ。脂っ気のないパサパサでもない、脂が乗っているが、乗りすぎたギトギトでもない、ほど好い具合なんですね。新鮮な入梅イワシは鯛やマグロを負かすぐらいの旨さがあることを知りました。

 

こんな美味しいものなら、観光ポスターなどで一年でいちばん美味しい「入梅イワシ」などとやればよさそうなものですが、それでは他の季節にイワシが売れなくなってしまうのでしょうね。だから、この拙文を読む人だけに、ナイショで教えます。

10年後の広告はどうなっているか(7)

水曜日, 7月 8th, 2009

―広告の対流通デモンストレーション効果―

 

昭和30年代に出版された、アメリカのジャーナリストによる「マディソン・アベニューUSA」という広告業界の裏事情を伝えるノンフィクション本に、概ねこういう記述がありました。曰く、ファッション業界の人にとっては、広告が雑誌の読者に見られることが目的なのではない。雑誌に出た広告を切り抜いて小売店に見せ、「ほら、こんな広告を出すから仕入れた方がお得ですよ」と言って、売り込むための手段に使っている、と。これが私の言う広告の対流通デモンストレーション効果です。

 

最近では、スーパーマーケットに売り込む営業さんが、バイヤーに対して「来月はTVスポットを1,000GRPも打つので、ぜひ月間特売に取り上げてください、などとやっています。スーパーの棚替えの時期になるとスーパーマーケット商品のテレビスポットが増え、店頭で商品が売れる8月夏休みにはテレビスポットが閑散期になるわけですね。

 

デモンストレーション効果は対流通ばかりではありません。消費者同士でも存在するのです。消費者も、出ている広告を見るとき、無意識ではありますが「この広告を何百万、何千万の人が見ているのだ」という、情報共有感覚をもって見ていることは、自分のテレビ視聴態度を反省してみれば分かります。このようなデモンストレーション副作用がテレビ広告の効果を増幅してきたことは否めません。この「情報共有感覚」は、テレビという媒体で最高潮に達しました。そもそもテレビは、情報共有感覚メディアなのです。それが典型的な「マスメディア」というものの真骨頂なのです。

 

消費者間における情報共有感覚は、広告の効果を増幅する作用をもっています。世の中の人々はこんなものが好きなんだ、とか、こんなものが若者の間で流行っているんだ、というような副次的情報をばら撒くからです。オープンな媒体と、クローズドな媒体といっても良いでしょう。情報共有感覚の多い順番に媒体をリストアップして見ます。まず、テレビですね。新聞はどうでしょうか。少なくとも、ほとんどすべての家庭で例外なく新聞を購読していた時代には、そうでしたね。電車の中吊り、ハイ、すごくオープンで、みんなが見ている感が強いですね。雑誌はどうでしょうか。新聞と同じで、これも部数によりけり、ということになります。街頭看板が繁華街のものと人通りのすくない住宅街のものとでは違うように、です。DM、これは何百万部送っても情報共有感覚が余りありません。こんな分析に基づいて、これからの媒体、ウェブを考えてみると、新しい視野が開けてくるかも知れませんね。あなたはどのようにお考えですか。

りんごジュースは健康に良い

木曜日, 6月 25th, 2009

あるテレビ番組にお医者さんが出てきて「りんごジュースは体の免疫力を高めるので健康に良い」と言ったと聞きました。それではりんごを生で食べれば良いのではないか、と聞かれると「りんごを食べるよりも、ジュースが良い」と言われたそうです。

 

どういうことか、考えてみて思い当たったのはこういうことです。りんごを生で食べるとき、ほとんどの人はキレイに皮をむいて、食べやすい大きさに切って食べます。一方、ジュースにするときは、幾つかに切り分けますが、皮付きのまますりおろしたり、ジューサーにかけるのではないでしょうか。つまり、皮ごとかじれば、りんごを生で食べても免疫力が上がる、というわけでしょう。

 

いつか、パーティーの席上、日独協会の招待で来日したという、ドイツ人の若いお嬢さんと話したことがあります。話が見た目も口ざわりも悪いジャーマンブレッドに及び、お嬢さん曰く「日本の方はパンでもお米でも、栄養のあるところを捨てて、おいしさ本位でものを食べている」と。数日間滞日しただけで、日本人の食生活の問題点を鋭く突いた観察をしているな、と思ったものでした。

 

昔は、農家のふだんの食事は、畑で取れた野菜をおかずに麦飯や3分搗きの米飯を食べることができれば上々で、魚や肉を食べるなどは年に何回かのハレの日以外にはなかったことでした。それでも日本人が強健な身体を保ってきたのは、きっと栄養のある部分を捨てない主食の摂り方をしていたのでしょう。健康にたいする意識が強まり、サプリメントの業界も一大産業に成長しつつあります。それも良いでしょうが、栄養のあるところを捨てない食事の研究がもっと進んでもしかるべきではないでしょうか。

10年後の広告はどうなっているか(6)

木曜日, 6月 11th, 2009

―広告を見ることを強いられない自由―

先日の広告閑話の中で、消費者は広告を見たいと言っていないのに、一方的に見せられてきたことを指摘しました。新聞記事を読もうとすると広告が載っている、テレビ番組を見ようとすると否応なくコマーシャルが出てくる。電車に乗ると中吊りポスターだらけ、と言うわけです。大量生産、大量販売の時代に突入して以来、消費者は自らの意思と関係なく、大量の広告メッセージにさらされてきたのです。

ところが、広告のじゅうたん爆撃がピークに達した1990年代から、この風潮に転機が訪れました。テレビ番組を録画したうえで、CMをカットして見る視聴スタイルが広がってきたのです。業界用語でいうザッピングです。そればかりではありません。メールによる広告は事前の許諾が必要とされたほか、雨あられと飛んでくる迷惑メールをカットするシステムも当たり前になりました。

広告メッセージを露出したい側と、それから逃れようとする側の攻防はまだまだ続くでしょう。媒体種類別の広告出稿量では、ウェブ系の比率が上がってきています。しかし、デジタル情報の領域になると、CMカットの技術開発も比較的やり易くなるのではないでしょうか。ウェブサイトから検索連動CMをカットするためのプログラムを無料でダウンロードできる日は遠くないでしょう。

こうなってくると、いくら広告主が広告メッセージを送りたいと何兆円もの予算を用意しても、受け手の防御網が発達すれば、効率的にそれを運用することができなくなります。防御網を張ることが難しい媒体、つまり電車の中吊りやスーパーの店頭広告などは、ますます引く手あまたになりそうです。このような環境は広告業者をより儲けさせるのか、逆風になるのか、うーん、微妙ですね。

大きくなったら、困っている人を助けてあげれば良い

水曜日, 6月 3rd, 2009

小学校2年生のときに溺れて死にそうになった現場を再訪しました。法事でふるさとの寺に詣で、ついでに子供のころ遊んだ浜辺に立ち寄ったのです。いま、まさに溺れたかのような臨場感に襲われ、感慨深いものがありました。あれが2年生の夏だったことも、現場で指折って確認できました。

遠浅の砂浜に、急に深くなったところができていて、ようやく犬掻きを覚えた小学生がそこにはまったのですが、どこかのおじさんが引き上げて助けてくれました。家族が気が付いて、集まって水を吐かせたり、大騒ぎしている間に、その命の恩人はどこかにいなくなったのです。

家族そろって家に帰る道すがら、「助けてくれた人がいなくなったけれど、どうすれば良いか」と姉がポツリと言いました。父が「この子が大きくなったら、困っている人を助けてあげれば良い」と答えたことが今でも記憶に残っています。

さて、あのときの恩返しは済んだでしょうか。どう見ても命の借りを返せないまま今日に至っているのではないか、と反省しきりです。毎月、銀行の口座から引き落としで、ユニセフに些少の寄付をしているほか、国連難民高等弁務官事務所にも不定期で送金しますが、どうもそんなことでお返しできないほどの大きな借りを背負っています。現場を訪ねて、その感じを強くしたものでした。