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甘じょっぱいパスタ

水曜日, 3月 18th, 2009

どんなものにも長所と欠点があって、良いことずくめなどということは滅多にないものです。先週、千葉の食材のおいしさについて述べましたが、今回は「良いことばかりじゃない」ということについてひとこと。週末、よく銚子に滞在していますが、あるとき、スーパーでお砂糖の特売がありました。たくさんの買い物客が10キロ単位でお砂糖を買ってゆくのを見て、「クリスマスケーキのように、この地域でお菓子を作る特別な日があるのだな」と思ったのです。そこでレジで聞いてみたのですが、なんと答えは「煮物に使うのでしょう」!

 

まさか、と思いながらよく観察してみると、いろいろ分かってきました。この地方の人は、甘い味付けが好きなのです。例えばサンマの甘辛煮。サンマが一本50円ぐらいのときに多めに買ってくる。ぶつ切りにして、生姜の千切りと、砂糖たっぷり、酒、しょうゆで骨が柔らかくなるまで煮込んで常備菜にしています。

 

これなどは地元の産物をうまく利用した、この地方独特の生活の知恵ですが、どうかと思うものもあります。銚子はお寿司屋さんの多い土地柄ですが、そこでほとんど例外なく供されるのが、名物の太巻き寿司です。プリンのように甘く、初めての人は驚かされます。つぎに、蕎麦屋さんで食べる温かい蕎麦。これが甘ったるくていけません。江戸の味に慣れたものにとって受け入れ難いものです。そばつゆに砂糖を使うのは当然なので、要はその分量の問題でしょうが、これが尋常ではないのです。さらに発見して驚いたのが、スパゲティー。和製ソースのナポリタンが甘いのはおおむね全国共通かも知れませんが、銚子ではぺペロンチーノであろうが、カルボナーラであろうが、どこで食べても例外なく甘じょっぱいのです。「ところ変われば品変わる」で、その発見は旅行の楽しみの一つでもありますが、ついに「この地方の人は甘い味付けを好む」という定理を打ち立てざるを得なくなりました。

 

戦中、戦後の一時期、一般庶民にとって砂糖は貴重品でした。日本語の語彙から消えてしまったと思われた羊羹がなんかの拍子に手に入って、みんなで、うすーく切ったやつを食べて感激したっけ。お餅のあんこが塩味から本来の甘い餡になったときも、豊かさと平和を実感したものでした。あの頃と比べると、今のなんでも有りの豊かさを、豊かと思う人はどのぐらいいるのでしょうか。それにしても、過ぎたるは猶及ばざるが如し、と思うのですが。

 

地産地消(千産千消)

水曜日, 3月 11th, 2009

東京に住んでいる人は、千葉の野菜や魚がおいしいことをあまり知りません。それはこれらの食材が東京の市場に出回らないからでしょう。千葉県には豊かな農地、近海漁場、遠洋漁業の基地など、山海の幸を提供してくれる舞台がそろっています。千葉県の人たちはその山海の珍味を東京に提供したりしないで、自分たちでムシャムシャと食べて、知らん顔をしているのです。むしろ、そんなことは意識していないのが、本当のところでしょう。

 

千葉県は千葉都民と呼ばれるほどホワイトカラーの層が厚く、地元で取れるおいしいものを地元で消費する好循環を生み出しているのです。生産と消費の循環を県内で完結させる、こんな好条件に恵まれた県は、関東ではほかには神奈川でしょうか。埼玉県では農産物が豊富に取れても、お魚に手が届かないでしょう。冷蔵・冷凍技術、コールドチェーンの発達で、昔は生魚など食べたことの無い地方でも、食生活に多様な魚料理を取り入れるようになっています。けれども、獲れたての新鮮なお魚を、獲れた近くで食べるのは、おいしさが全然ちがうんですね。スーパーでお魚を買ってきて食べている東京の人は、千葉にくるとびっくり仰天するでしょう。

 

生来、カツオというものを好みませんでした。カツオには独特の生臭みがあって、口に合わない、と思っていたのです。ところが、銚子でカツオを食べて考えを変えざるを得ませんでした。まず、千葉以北で獲れるカツオは、戻りカツオでなくとも脂の乗りが良いようです。そして、それをタタキでなく、刺身で食べるのが千葉流なのですが、これがめっぽうおいしい。そして、安い。

 

ところで、山紫水明というか、山から清流が流れ出て、その伏流水が豊富なところでおいしい日本酒ができる、という先入観をもっていました。つまり、新潟、福島、山形、秋田などが代表的な日本酒の産地だ、というイメージです。千葉の日本酒など眼中に無かったのですが、いつか、魚を煮るためにお酒が必要になり、名も知らない地酒を買ったのです。何気なく、口に含んでびっくりしましたね。うーむ、おいしいのです。これも、千葉の人が地元のおいしいものを地元で消費して、知らん顔をしているもう一つの例です。ずるい、というか、うらやましい限りです。

“team m”の皆さんに食関連のテーマで書いてくれるよう、お願いしました。食に関わる仕事をしている若者グループです。哺乳類の食、人類の食、日本人にとっての食、消費者にとっての食、職業人としての食など、など。さて、どんな話が出るか。長い間ひとつのテーマを追いかけていれば、だんだん深みが出てくるのではない、と楽しみです。

逐次的提示という表現形態

水曜日, 3月 4th, 2009

山手線ドア上のデジタル広告、それにウェブ広告に新しく現れたディスプレイ型広告。これらが新しい表現形態を発達させつつあることに、折に触れて言及してきました。視覚要素の逐次的提示という共通項をもっており、時間媒体なんですが、そうかと言ってテレビCMとも違う。テレビCMがほとんど映画の文法を踏襲しているのに対して、これらサイネージ型ともいうべき表現スタイルは、別の文法に基づいています。そう、どちらかというと、絵本や紙芝居の文法です。先日、絵本作家の知人から作品を見せてもらって、ハタと気が付きました。

 

しかも、絵本や紙芝居を超えた手法を開発しつつあります。というべきは、ビジュアル要素に文字を多用することです。たとえば、どこでどんな催しをやっていますよ、といった文字情報を逐次的に見せることで、見る側の逐次的理解とシンクロしさせています。ここで、日本語が表意文字であることがずいぶん有利に働きます。なにしろ、パッとみてパッと分かってしますのですから。

 

日本人は、この表意文字を感情的、情緒的表現に使うことに長じてきました。古池や蛙飛び込む水の音、など、やはり漢字かな混じりでなくてはいけません。パッと見て、パッと情景が浮かびます。翻訳書などで、何回読み直しても意味が分からない漢字かな混じり文もありますが、それは別として、パッと分かる文章というのは、ポスター向き、サイネージ向きです。これを逐次提示されたらイヤでも言わんとすることが通じてしまいます。

 

と、考えているうちに、またまた「ハタ」と気が付きました。この手法って、多くの人たちがパワーポイントを使ったプレゼンテーションで、長年にわたって腕を磨いてきた逐次的提示の方法と軌を一にしているんですね。ところで、昨日はパチンコ屋さんのテレビCMで、ページを4-5枚めくる形が現れたので、「あっ、技術開発の逆流だ」と笑ってしまいました。

連呼型選挙とマーケティングの類似性

水曜日, 2月 25th, 2009

むかし、と言っても1960年代ですが、テレビがようやく一人前の媒体として歩き始めたころ、5秒コマーシャルというのがありました。例えば三船敏郎がビタミン剤のビンを手にして「飲んでますか?」という。ただそれだけですが、「いそがしい毎日で、疲れる人は、私のようにXXXをのんで頑張りましょう。」といったメッセージが伝わる秀作もありました。

 

さすがに5秒コマーシャルは、あまりにもテレビのステーションブレークを混雑させる、というので廃止になりました。それでも、わが国の標準、15秒コマーシャルは、国際スタンダードの30秒と比較すれば格段に短い。やはり俳句のお国柄です。そればかりでなく、本質的にテレビコマーシャルが短時間で、好もしい感じなどの感情惹起や印象付けに強い力を発揮できることは、間違いないようです。それだけの目標に向かって集中し、割り切ったコマーシャルが多く見られます。片や諸外国では、事実についての認識を創り出そうとするコマーシャルが比較的多いように見られます。

 

コマーシャルや商品にたいする知名度や好感度をあげることで、商品の売り上げがアップする、という図式は世界中どこでもあることですが、特にわが国では顕著に見られる現象のようです。ブランド間に品質の差異がない商品カテゴリーでは、知名度が市場シェアに影響することが多く、15秒テレビCM依存型マーケティングが支配してきました。

 

このことは、政治の世界に当てはめてみると、類似性があることがわかります。つまり、わが国の選挙は連呼型の選挙運動がいまだに主流をなしています。政策そっちのけで、知名度だけで選挙戦が戦われることが如何に多いか。しかし、この世界でも数年前から「マニフェスト」ということがうるさく言われるようになり、だんだんと政策論争による選挙へと移行しようとしています。「顔見知り主義」とでもいうべき日本的、いや、アジア的現実から次第に脱却するのでしょうか。選挙戦で連呼を禁止すれば、この動きは早まるでしょう。

 

ビジネス、あるいは広告の世界でも同じことが起きるのでしょうか。15秒テレビコマーシャルという、いわば連呼型の兵器が力を失い、ウェブ広告が取ってかわらざるを得なくなれば、結果として別の形のマーケティングが模索されるかも知れません。かといって、低関心商品のマーケティングが製品特徴認識型に移行するわけではないでしょうから、さあ、どうすれば良いのでしょうねえ。

ITですすむ民主主義の成熟化

水曜日, 2月 18th, 2009

国民年金のデータベースが、ひどいことになっているようです。それらしい、と思われる誤りを訂正するために年金特別便とか言って何百万通ものはがきを郵送しています。はがきをもらって、社会保険事務所に出かけていって、漏れを見つけ、もらい損なった年金がすぐもらえるものと思った101歳の人が、9ヶ月待ってももらえないんだって。死んじゃうよって、このことですね。

 

しかし、年金関係は別格のケースで、電子政府と呼ばれる行政のIT化は、着々と進んでいるらしい。2月中ばが所得税申告の締め切りで、国税庁が盛んにウェブで申告することをPRしていました。やがてみんなの所得は、一人一個の納税番号でデータベース化され、脱税のうまみは無くなることでしょう。それを住民基本台帳ネットワークと関連付けることは容易にできるでしょうし、年金データベースともつながるでしょうね。

 

こういったことを行政サービスの効率化という側面から見ることもできますが、それは別の角度から見ると行政による住民管理の徹底ということになり、そこんところが気に入らない人がたくさんいるわけでしょう。別に頼んだわけでもないのに、行政が行政の都合で、住民のデータベース化をどんどん進めているように見えます。

 

それでは、個人の側から見て、政治、行政についての情報を探す、受け取る、あるいは政治や行政にたいして情報を発信することは十分にできているのでしょうか。中央官庁や地方自治体のホームページはかなり充実してきました。政治家も衆参議員は、ほとんどそれぞれのサイトを開いていて、そこに個人が書き込みをすることもできます。しかし、官庁や、内閣府が積極的に国民の声に耳を傾けようとしているふうには見えません。

 

Yahoo!には「みんなの政治、みんなの評価」というページがあって、政治の話題に関連のあるブログにつながったり、メンバーは議員にたいして投稿したり、投稿に対して投票したりできる仕組みになっています。このようなシステムを大新聞やテレビ局はどうして提供しないのだろう、と思ってしまいます。伝統的なワンウェイ情報システムを独占するビジネスモデルを持続したい、と考えて、個人の情報発信から逃げようとしても、時代がそれを許さないでしょう。

 

現状からもう少しすすんで、自宅のパソコンや携帯から国民投票や住民投票ができる、市長さんのリコールのための署名運動もできるようになるには、もう少し時間がかかるでしょう。国民・住民の側から要求しないと、こればかりは行政が提供してくれないでしょうから。それにしても、IT技術が直接民主主義的手法の普及を含め、民主主義の成熟化に大きな力を発揮するのは間違いなさそうです。

時間軸をもったグラフィック・デザイン

水曜日, 2月 11th, 2009

ビデオ画面がフリーズすることによって、一定の状況、感情などを表現することは、これまでも行われてきましたが、最近では、グラフィック・デザインの方に時間軸が加わり、動きや音がプラスされてきました。と、言うより、表現形態全般に多元化した、と言うべきなのでしょう。平面広告やポスターの絵柄や文字が動く、音が出る。これがデジタル・サイネージの世界です。デジタル技術で、平面デザインの表現は無限の広がりを獲得したと言えましょう。

 

クリックすると別の画面やサイトに移動する、というのも今ではウェブ上で当たり前のことになっていますが、新しい情報技術であることに違いはありません。そんなことは、当たり前です。そう、ウェブの世界ではね。デジタルの世界ではね。しかし、どうして、それがデジタル・テレビでは出来ないの?それは、それがテレビだからです。つまりテレビは前時代の遺物なのです。と、こうなりはしませんか、心配ですね。

 

ジョン・フォード監督は、活動写真と呼ばれた動画の世界にグラフィック・デザインの手法を取り入れました。例えば、駅馬車がかなたから疾駆してくる画面の地平線を、黄金分割の線に一致させることに、固執したといわれています。グラフィック・デザインの側から見れば、1939年に活動写真が使ったグラフィックのお返しを、今日デジタル技術でやりました、ということになるのでしょうか。

広告の信頼性はただいま低下中

水曜日, 2月 4th, 2009

もともと広告は、半ば不信の眼で見られているのがふつうです。同じマスコミでも、報道コンテンツなら信頼されるけれども、広告メッセージだと「話半分」に聞かれると思ってよいでしょう。広告を出す側もそのことを念頭に、どうすればクレディビリティーをもって見てもらえるかを考えながら広告づくりをするのが、当たり前になっています。

 

それが平時の心構えとすれば、いまは非常時の認識が必要になっているのではないでしょうか。身近な食べ物の話題だけでも、ミートホープ事件、中国製ギョーザ、鰻の産地詐称、汚染米、客の食べ残しをふたたび他の客に出す一流料亭、賞味期限切れの材料を使いまわす有名菓子銘柄。大企業の行状でも、これでもかと報じられる脱税、談合、詐欺事件。これらが消費者の企業にたいする信頼感を低下させているのは、まちがいありません。

 

これまで、企業の内向きの論理で覆い隠されてきたものが、社員の意識の変化で内部告発されるようになったこと、そして内部告発がネット上でかんたんにできることが、つぎつぎに報道される企業不祥事の原因の一つかと思われます。そうだとすると、まだまだこれから隠された不祥事が発掘されることが予想されます。それは企業一般にたいする消費者のイメージをこれまで以上に悪化させるでしょう。

 

このような状況では、経営環境の悪化からくる企業のリストラも不祥事件と同一視される可能性があります。赤字経営のもとでは、人員削減を考えるのはグローバルスタンダード、世界の常識です。むしろそこに社会的セーフティーネットを作っておかないのは、政府、政権党、行政の責任だと思います。その怠慢のせいで、企業が槍玉に挙げられる傾向があります。

 

マスメディアも長いあいだ、社会的に信頼性の高い存在でしたが、そのイメージも低下しつつあります。コンテンツの質の劣化もさることながら、企業市民として、あまり社会的に尊敬されない種類の広告主が、経済環境が悪くなるたびにテレビ画面に目立ってふえています。一昔前はサラ金でしたが、いまはパチンコ屋さん。だからテレビにスポット広告をうつと、自社のCMがパチンコのCMに隣接して放映されることが多くなる。イメージ的にはパチンコ屋さんと同列になるといっても過言ではありません。

 

信頼性ならまかしてください、といわんばかりのステータスを誇示してきた新聞も、イメージ低下では負けてはいません。テレビだけにまかせてはおけない、とばかりに紙面を荒らしています。通販広告、旅行会社のパッケージツアーのごちゃごちゃした広告、やはりごちゃごちゃでは人後に落ちない量販電気店の広告などが紙面を賑わしており、以前のおっとりした美しい紙面とは打って変わった趣きになってきました。もっとも、新聞広告はリテールの広告媒体としてよく機能するので、本来の使われ方が増えてきたと言えなくもありません。

 

以前は、広告の目的に「企業またはブランドのイメージを向上させる」ということを掲げることがしばしばありました。最近のように広告を取り巻く環境が悪化すると、イメージ向上の目的をもってマス媒体に広告を出すことははばかられる時代になったのかも知れません。広告メッセージの中に提案や主張を盛り込むと、メッセージの信頼性を問われる。だから、そういう正統的な広告を避けて、ただ単に面白がってもらう、エンターテインすることで近親感をもってもらうことに徹する、そういう広告が世の中に増えているようにも見えます。いたちごっこで、それがますます広告の信頼性を損なうことにならなければ良いのですが。

テレビ広告の直面する問題は始まったばかり

水曜日, 1月 28th, 2009

テレビ広告の不調の原因を、経済環境の悪化や流通の寡占化など、業界構造の変化に求める論調が盛んです。一方、私はこのブログで、消費者の視聴態度の変化を強調してきました。以前(1月7日のこのブログで)、みんなが参考にしている視聴率調査に、意図せざる偏向があるのではないか、という主旨の仮説を提示しました。バラエティー番組が受けているという数字が出て、それによってスポット広告が売買されているけれども、実態は数字ほどではないかもしれない、というお話しです。

 

今日はそのほかにもう一点、ヤバイ仮説を提示しておきましょうか。視聴率調査の母集団を即時視聴者に限ることによって、セッツインユース(テレビ視聴世帯数)が実勢以上にプロジェクトされている可能性がありはしないか、ということです。1月7日の論点を敷衍すれば、当然そうなります。

 

視聴率数字を裏読みすることでそうだとなると、そこにはさらにヤバイ状況が浮かび上がります。セッツインユースに占めるNHKのシェアがここ数年、目だって上がってきているからです。穿った見方をすれば、NHKは番組アーカイブ化や視聴者の録画視聴習慣の増加を見据えた番組制作スタンス、つまり番組の質の向上を目指しており、それが視聴率の上昇につながっている。一方、民放は空洞化した視聴率を刹那的に追いかけて、スポット広告の営業に明け暮れしている。そんな構図が見えてきませんか。

 

このような状況が漸進的に進むと何が起きるか。すでに進行中だと思われるのですが、テレビスポットの広告媒体としての性格が変化してしまう。広範な消費者に適切な回数で広告メッセージを露出することが出来なくなり、以前可能だったように知名率を50%(二人のうち一人が知っている過半数)とか、65%(三人寄れば二人が知っている絶対多数)を達成することがテレビでできなくなります。つまり、広告のリーチ・フリクエンシーが以前のような理想的な姿を描かなくなるわけです。テレビ広告の直面する問題(つまり、ほとんどのマーケターの直面する問題)は、まだまだ始まったばかりです。

古き良きジャーナリズム

水曜日, 1月 21st, 2009

去る1月16日、USエアのエアバスA320がハドソン河に不時着。その記事をロイターのサイトで読んでいたら、次のような文章がありました。つたない訳文ですが、ご一読ください。

 

  • 管制官とコックピットとのやりとりで、ラガーディア空港に引き返せるか、ニュージャージーのローカル空港に着陸できないか、それらの選択肢がいずれも不可能となったとき、そこに奇妙な沈黙が支配した。そのあと機体は、マンハッタンの高層ビルをかすめてハドソン河へと向かった。
  • サレンバーガー機長は機体が水没し始めると、全員が退去したかどうかをチェックするため、機内を2度往復した。
  • 全員が救助されたあと、機長は映画に出てくる軍服を着たデビッド・ニーブンのような風情で、フェリーボートの上で何事も無かったかのように静かにコーヒーを啜っていた。
  • ニューヨーク市長ブルームバーグ氏の言。「危機に直面したときの優雅な振る舞いこそがヒロイズムである、とヘミングウェイが言っているが、サレンバーガー機長は昨日、まさにそのことを実証した。」
  • 機長の銅像を建てるならば1万ドルを寄付する、という匿名の人物が現れた。

 

これからはウェブ・ジャーナリズムが発達し、ニュース発信に一般人の参加が増えてくるでしょう。そうなると、伝統的な新聞記者の世界も狭まってくるのでしょうか。上のような記事スタイルは、古き良き時代の遺物と言われるようになるかもしれません。記者が人間の行動を活写することによって、読者に情景を髣髴とさせているのですが、それらがいずれも客観的事実を述べていて、ジャーナリズムの基本をしっかりと踏まえていますね。

 

われわれがいつもお目にかかる新聞記事といえば、4WHをカバーしていれば合格、といった味も素っ気もない記事がほとんどで、それが記者やデスクが勝手に憶測した心理記述で脚色されているのが普通です。いわく「喜びに沸き立つ地元の人々」「悲しみに打ちひしがれた遺族」などなど。日本では上のロイターの例のような記事スタイルを良しとする紙面が現れないうちに、新聞が衰退してゆくのでしょうか。わが国にも良い文章の書ける記者はたくさんいる筈ですが、みんな押し殺されているんでしょうね。

テレビの弱体化はマーケティングを変える

水曜日, 1月 14th, 2009

20世紀後半がテレビ全盛の半世紀であったことは疑う余地がありません。この間テレビ放送は、情報伝達の手段として市民の生活、政治など社会全般に大きな影響を及ぼしました。そして広告媒体としての側面からは、企業の広告活動を左右するスーパーメディアとして、力を発揮してきました。この半世紀にマーケティングに携わった人々は、この強大な広告媒体が電力と同じようにインフラとして存在する中で業務を行い、このインフラの無い世界など考えられなかったのではないでしょうか。

 

媒体としてのテレビの強力さは、その到達範囲が広範なことばかりでなく、見る人の視野一杯に情報を展開して注意をひきつける点で、インパクトも強い。映画館で観る映画を除いて、これだけ強力な情報媒体はテレビ以前にも無かったし、これからも当面視野に入ってきていません。

 

それが弱体化しつつあるのですからたいへんです。5年ごとに実施されるNHK放送文化研究所による国民生活時間調査では、2005年のデータではテレビ視聴時間の減少は、有意ではあるがさほど大きいものではありません。むしろ、新聞を読むのに費やす時間の減少傾向のほうが、より眼を引くぐらいです。しかし、テレビ視聴時間についても、2010年の調査ではより大きな変化が記録されるのではないでしょうか。2005年からこの調査でカバーされるようになったインターネットに費やす生活時間が、2010年の調査でどう変わるかも要注意ポイントです。

 

テレビ媒体の弱体化により、そしてネット媒体の相対的な強化によって何が起きるか。これは一概に予測し難い。とくにネット媒体は発展途上にあって、まだその広告媒体としての活用方法が定まっていないからです。しかし、高関心商品に関するかぎり、ネットの活用でうまく情報を消費者に届けることができることが実証されつつある。(自動車などがそうですが、自動車も高関心商品でなくなりつつある気配もあります。)

 

問題は、スーパーマーケットで販売されているグロサリーや日用品など、低関心商品の場合でしょう。これまで、テレビの前に座っている人にいきなり強力な情報ミサイルのようなもの(低関心商品についての高関心コマーシャル)を発射して、消費者に情報を注入してきたのですから、(商品情報が無理なら好感度をください、とやってきた)これからは困るでしょうね。当然、店頭での活動に多くの費用を振り向ける方向に行かざるを得ないでしょう。すでに一部の先進的なメーカーの中には、明確にその方向を示しているところがあります。

 

2008年のアメリカ大統領選挙は、時代が明確にテレビの時代からネットの時代に代わりつつあることを告げました。ネットの使い方は、情報媒体としての新しい多様性がまだまだ発掘され、広告的にもいろんな人がいろんな実験をして、だんだんと形が定まってゆくのでしょう。多くはこれからのお楽しみ、というところでしょうね。