東京タワーが開業50周年を祝ったそうです。この50年はまさにテレビの半世紀でした。「電気紙芝居」と馬鹿にされていた揺籃期を過ぎると、テレビから生々しく噴き出してくる同時代感、地球市民感の共有みたいなものが、一世を風靡したものでした。そして今、ピークアウトした倦怠感が厚さの薄くなったテレビからふわふわと吹き出しています。ベルリンの壁を破ったのは国境を越えて流れるテレビ放送の力によるところが大きかったのではないかと思いますが、ビルマの僧侶デモやチベットの反乱の誘因になったのは疑いもなくインターネット。主役交代の感を否めません。
こうなった今日においても、どうしてもテレビでなくっちゃ、というのが報道番組とスポーツ実況放送でしょう。そういう意味で、あるテレビ局が夕方6時から2時間の報道番組を立ち上げようとしているのは、テレビ本来の原点に立ち返ろうとしているのかと思います。実況放送のCMをその場でザッピングするわけに行かないですからね。ただし、最近のテレビ業界はこれらのジャンルもすべてバラエティー番組に仕立てようとする癖があるので気をつけないと。正々堂々と報道番組を作ることができるのか。そもそもわが国のテレビはニュース報道を株主である新聞社におまかせして、こちらはエンタメ主体で、と棲み分けしてきたのではないのか。内閣官房長官の発表をそのままテレビカメラで映すだけだったり、山に雪が積もりましたとか、どうでも良いことをこれぞ本日最大の関心事の筈ですなどと、視聴者の目を大事なことから逸らしてきたのではありませんか。笑止千万もお笑いネタの内というつもりでしょうか。
一方、報道という大事な使命をおまかせされた新聞社はというと、官庁記者クラブで渡された記事資料をそのまま真実として記事にしていることがほとんど。まるで戦争中の大本営発表システムがそのまま現代に生きているといった感があります。こういうことが改善されないと、新聞を購読する人はますます減少せざるを得ないでしょう。それで膨大な量の紙・パルプの消費が減り森林破壊のスピードが落ちるのは、或る意味では良いことですけどねえ。それなら、家庭で購読していない新聞を印刷して販売店に届けて、発行部数を水増ししたりするのは止めていただきたいものです。新聞広告の料金は交渉次第で割り引かれても、公表された発行部数を基に折込用のチラシを持ち込まざるを得ないスーパーマーケットは、配布されないチラシの折込料金を払うことになり、迷惑するではありませんか。
ところで、テレビでは田原総一郎さんがアンカーを勤める日曜朝の番組は「さすが」という気がします。そのあたりに転がっているネタを編集して見せるのでなく、水面から見えないものを発掘して、つまり徹底取材して見せるところにマスコミの真の値打ちがあるのです。しかし、サンデー・プロジェクトといえども独自取材で正義の味方を標榜できそうなのは地方自治体のケースがほとんど。霞ヶ関中央官庁のガードは固いんですね。どうも、今日はグチと悪たれ口が多かったようです。