父の世代は経済合理的に生活していくと生活が豊かになっていくことを家族が共感できた時代だった。共感があれば仕事人間であっても結果に対する満足感を感じることができたろうし、つらいときに浮かぶ家族の笑顔で乗り切ることもできたんだと思う。
そんな幸せな時代が20年ほど前に終焉し、現代は経済合理性を最適化して考えれば考えるほど不幸せになっていく時代になっているのではないだろうか、というのが最近思うことです。特に第3次産業に従事されている人々は、自分の経済的インカムをあげようとがんばればがんばるほど、マーケットの中での同業他社との競争が激化するため結局のところ努力の結果はサービスのディスカウントや投資にまわされた結果自己へのリターンは期待したほどでもなく、さらにそのなかでがんばればがんばるほど自分に課せられる仕事がどんどん増えていく、というパターンになっているような気もします。極論ですが。
家族が週末100円回転寿司で夕食をとるのは、家事というものを労働として価値判断し、それだったら2時間分の母の労働時間を外食にまわせば時間が浮くので経済的に合理的である、という考えが潜在的にあるあずだ。いまでもたいていの父親は「家事という労働」を共有している割合は少ないだろう。
でも、家族との食事をそれを計画するところから考えて一緒に作ったものを楽しんで食べるというプ「レジャー」として考えるとその2時間のかつて労働と判断されたものの価値は違った形で家族にリターンされるはずだ。そして100円回転寿司ディナーに投じた同じ金額で製作された食事ははるかに美味なはずである。
人間合理的に生きるということは、武道とか極道とか同じような「道」的なプラクティスが必要なので、何かの本を1冊読むと理解して実践すればすぐに実感として理解できるということではない、ということが難しいところだと思います。子育ての喜びはやってみないとわからないとか、子供を育ててみて初めて自分が成長したと感じる、とかと同じ類の話でですね。
生活スタイルや人生のリスク、プレジャーに関する考え方と体験の仕方が大きく変わってしまい、古くから確立されたしきたりとか慣わしなどの生活の基本動作基準が適応できなくなってきていることが現代の我々の生活に混迷の理由でしょうね。これからの時代を人間合理的に生きるための知識の創造と共有が求められているいると思います。
by hdknr.com