去る1月16日、USエアのエアバスA320がハドソン河に不時着。その記事をロイターのサイトで読んでいたら、次のような文章がありました。つたない訳文ですが、ご一読ください。
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管制官とコックピットとのやりとりで、ラガーディア空港に引き返せるか、ニュージャージーのローカル空港に着陸できないか、それらの選択肢がいずれも不可能となったとき、そこに奇妙な沈黙が支配した。そのあと機体は、マンハッタンの高層ビルをかすめてハドソン河へと向かった。
- サレンバーガー機長は機体が水没し始めると、全員が退去したかどうかをチェックするため、機内を2度往復した。
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全員が救助されたあと、機長は映画に出てくる軍服を着たデビッド・ニーブンのような風情で、フェリーボートの上で何事も無かったかのように静かにコーヒーを啜っていた。
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ニューヨーク市長ブルームバーグ氏の言。「危機に直面したときの優雅な振る舞いこそがヒロイズムである、とヘミングウェイが言っているが、サレンバーガー機長は昨日、まさにそのことを実証した。」
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機長の銅像を建てるならば1万ドルを寄付する、という匿名の人物が現れた。
これからはウェブ・ジャーナリズムが発達し、ニュース発信に一般人の参加が増えてくるでしょう。そうなると、伝統的な新聞記者の世界も狭まってくるのでしょうか。上のような記事スタイルは、古き良き時代の遺物と言われるようになるかもしれません。記者が人間の行動を活写することによって、読者に情景を髣髴とさせているのですが、それらがいずれも客観的事実を述べていて、ジャーナリズムの基本をしっかりと踏まえていますね。
われわれがいつもお目にかかる新聞記事といえば、4W1Hをカバーしていれば合格、といった味も素っ気もない記事がほとんどで、それが記者やデスクが勝手に憶測した心理記述で脚色されているのが普通です。いわく「喜びに沸き立つ地元の人々」「悲しみに打ちひしがれた遺族」などなど。日本では上のロイターの例のような記事スタイルを良しとする紙面が現れないうちに、新聞が衰退してゆくのでしょうか。わが国にも良い文章の書ける記者はたくさんいる筈ですが、みんな押し殺されているんでしょうね。
日本では奇跡の不時着水という表現が多かったのですが、知人の航空ジャーナリストは 見事な不時着水と表現すべきではと言ってました。書く側が事をどこまで理解しているかですね。