土曜の午後にふと思う

6月 27th, 2009

東京と山梨を毎週行き来する生活が続いています。
生活のリズム、五感で感じるものの多くが東京と山梨では大きく違います。
どちらかがで当たり前の事がどちらかでは当たり前でなかったり、又は片方には存在すらしなかったりすることも・・・

eco減税やecoキュートなどecoという単語が身の回りにものすごい勢いで増えている。
いいのはわかっているけども意識が低いみたいに言われると買う気がうせてしまう。
問題が違う様な気が・・・

有機農業を一生懸命やっている農家の知り合いの話を聞くと確かにいいのはわかるし反論もない。
だが今の農業の否定的な話ばかりを聞くとどうも違和感がある。

どっちが良い悪いではないはずだ。
自分はどうなんだというところでは色んな意味でどっちでもない事が多い。
大事にしたいのは常にバランスを保つ事。
と土曜の午後に思う。

 

りんごジュースは健康に良い

6月 25th, 2009

あるテレビ番組にお医者さんが出てきて「りんごジュースは体の免疫力を高めるので健康に良い」と言ったと聞きました。それではりんごを生で食べれば良いのではないか、と聞かれると「りんごを食べるよりも、ジュースが良い」と言われたそうです。

 

どういうことか、考えてみて思い当たったのはこういうことです。りんごを生で食べるとき、ほとんどの人はキレイに皮をむいて、食べやすい大きさに切って食べます。一方、ジュースにするときは、幾つかに切り分けますが、皮付きのまますりおろしたり、ジューサーにかけるのではないでしょうか。つまり、皮ごとかじれば、りんごを生で食べても免疫力が上がる、というわけでしょう。

 

いつか、パーティーの席上、日独協会の招待で来日したという、ドイツ人の若いお嬢さんと話したことがあります。話が見た目も口ざわりも悪いジャーマンブレッドに及び、お嬢さん曰く「日本の方はパンでもお米でも、栄養のあるところを捨てて、おいしさ本位でものを食べている」と。数日間滞日しただけで、日本人の食生活の問題点を鋭く突いた観察をしているな、と思ったものでした。

 

昔は、農家のふだんの食事は、畑で取れた野菜をおかずに麦飯や3分搗きの米飯を食べることができれば上々で、魚や肉を食べるなどは年に何回かのハレの日以外にはなかったことでした。それでも日本人が強健な身体を保ってきたのは、きっと栄養のある部分を捨てない主食の摂り方をしていたのでしょう。健康にたいする意識が強まり、サプリメントの業界も一大産業に成長しつつあります。それも良いでしょうが、栄養のあるところを捨てない食事の研究がもっと進んでもしかるべきではないでしょうか。

くららラボ:「ペプシしそ」

6月 23rd, 2009

弊社が運営するくららネットの舞台裏では、こんな感じで毎週くららラボを行っています。

1日に3~5品程度を、1時間くらいで作って食べて、わいわいとやっています。

らぼのときに基準にしているのが、このレシピなりがメールマガジンで3万人以上の人に送る価値があるものかどうか。

毎回ログをとっているので、どういうものが人気なのかということが手に取るようにわかるのでした。

このお話は、もっと真面目にお話するとして・・・

今日は、三時のお茶タイムに、遊び的なラボを。

ペプシしそ 限定発売で今日が解禁日だったようです。

本日のくららのtwitter タイムラインは、まさに、この「ペプシしそ祭り!」

午前中は、この単語とURLが飛び交い、午後13時ごろから飲んだ感想が。

のきなみその味に撃沈したというものでしたが、その話題がまた話題となり、思わず首をつっこむと、

「3人くらいで回し飲みするといいよ。コップ半分くらいならおいしいwwあと、ひとくち目飲んだ後は、かならずニヤニヤしちゃうよww」という飲み方指南までうけてしまったので、さっそく挑戦したのでした。

事務所にいたメンバー分のコップにブツを注ぎ、さっそくぐびっと!

なかなか壮絶なお味とお色でございました^^;たしかにニヤニヤしちゃいますw

ペプシの広告の歴史 にも名を残しているCMを手がけたボスの前に広告論は語るのも忍びないのですが、

会社下のサンクスに4フェイスもこの商品が陣取っているのをみて、すごい戦略のもとに作られているのだろうなと。

「話題を呼ぶために」わざとこういう味、こういう色にして、本数を限定して販売しているのでしょう。

ボスに当時のプロモーションの裏舞台を聞かせてもらいたくなりました。ぜひよろしくお願いします。ぺこり。>ボス

娘と僕

6月 21st, 2009


Generations by Andy Rouse

Originally uploaded by frenchmonkeys

仕事は常に終わらない、という状況になって久しいが忙しいときに娘の世話をしていると仕事の事が気になって、このままじゃ仕事まずいなぁとずっと思っていた。とは言っても娘の世話をしない訳にはいかないので、忙しいなか対応しているとだんだん割り切れるようにはなってきた。

そうやって自分の時間を割きつ、娘の世話をしながら彼女の未来を考えて一緒に行動していると、彼女の人生の一部が自分の人生の一部ではないかという錯覚が生じてくる。自分の重要な時間を彼女に使っているという未練が強すぎるかもしれないが、でもそう思ってしまう。娘が歩む人生も自分の人生の一部なのではないかと。

そう思ってしまうと彼女といる時間をもっと大事にしようかなと思うようになった。なるだけ一生懸命遊ぶようになった。
自分の人生が子供の人生の一部、とまで押し付ける必要はないとは思うが、子供の人生は自分の人生の一部、というのはそれはそれで正しいような気もしている。
僕が亡くなったあとも僕と過ごした記憶やそのとき感じた感性は彼女にずっと残っていると思う。そう思うとなんだか自分にはとても時間が少ないような気がしている。

そんな事を父の日の今日も考えたのだが、実は自分の亡き父親もそうやって考えていたのかもしれない、と思うと若い頃気分的に反発していた自分が寂しい気がする。が子供はそんな物かもしれない。僕の娘もきっとそうなるだろう。それでいいと思う。

いずれにせよ、人間は環境との共有も必要だが、世代間の何かしらの共有が必要だとは思っているが、この気持ちや行動がそれなのかはまだわかっていない。
by hdknr.com

Amazon EC2 の ec2-bundle-vol でエラー

6月 20th, 2009

技術話です。

AmazonEC2 で稼動中の AMI(AmazonMachineInstance) をイメージ化して保存する(合ってる?)のが ec2-bundle-vol というコマンドなのですがエラーが出ました。

# ec2-bundle-vol -d /mnt/YYYYMMDD -k ~/.ec2/pk-XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX.pem -c ~/.ec2/cert-YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY.pem -u NNNNNNNNNNNN
(snip)
ERROR: execution failed: “rsync -rlpgoD -t -r -S -l –exclude /sys –exclude /proc –exclude /dev/pts –exclude /proc/sys/fs/binfmt_misc –exclude /dev –exclude /media –exclude /mnt –exclude /proc –exclude /sys –exclude /mnt/YYYYMMDD/image –exclude /mnt/img-mnt -X /* /mnt/img-mnt 2>&1 > /dev/null”

ec2-bundle-vol の内部で rsync 使っていて、その rsync でエラーになっている模様。なぜだろう、と思っていたら /home を EBS 使ってマウントしているからでした。fstab に

/dev/sdb1      /home           ext3        noatime

と明示的に指定していれば ec2-bundle-vol コマンドは /dev/sda1 しかみないはずなので /home はスルーしていたはずです。しかし fstab に上記のように書いていなかったため、/home もイメージ化対象にしようとしたため、/mnt の容量超過でエラーを出していた模様。

# umount /home

したあとに ec2-bundle-vol コマンドを実行してうまくいきました。/home の容量が少ない場合は成功するはずですが、この時の /home は結構容量があったので容量超過になったのですね。

fstab に書いていないのは、起動時に /dev/sdb1 がマウントされているとは限らないからです。要は ec2-bundle-vol する前は /home を umount しておけ、ということですね。

KY

6月 18th, 2009

夕方、紙の山と化した机を片付けていたnorikoさんにプリントをさらっと渡されました。

電通総研発行の女子高生の携帯電話の使い方について10年前の第一世代と今の第二世代との比較レポートでした。
下記urlの他己ウケの時代をプリントした物です。
http://www.dentsu.co.jp/di/consumer/index.html

パラパラと読んでみると自分の娘達の携帯へ付き合い方の変化そのものでした。
この10年でネットワーク上に次々と新しいサービスが出ては消えて行く中で今はtwitterのようなリアル感があり多様な発言のおもしろさが全盛である。
自分自身もネットに関わっていくうちに確実に変化してきているし、twitterの広がり方を見ていると多くの人が共感してネットコミュニケーションの関わり方が変化しているのだ。

タイトルのKYは {らみすい}
容赦なくやってくる強いプッシュ型でなく、自分で探しにいくプル型でもないスタイル。
より多くのリアルタイムな情報を送るためにはKYを取り入れた情報発信がヒントになる。
変化を見ている側でなく変化する流れに乗らなくてはと思います。
さてどうする。

Web進化論

6月 14th, 2009


08.28.07 Lunar Eclipse Timeline +

Originally uploaded by robotography

という本が合ったと思うが、読んでいなかったりする。:-)

まちがってはてなダイアリーに投稿してしまったが、それはそれでいいや、ということでこっちにもコピーすることにしました。

先週Google Waveという新しいサービスが発表になったがこれはリアルタイムの状態共有インターフェースと言っていいだろう。そして発言をタイムラインで共有するTwitterもますます広がりを見せている。

STMPでのメールを中心にインターネットは当初ドキュメント交換が主なユースケースだった。その後、HTTPによる”Web”が生まれてインターネットは巨大なドキュメントレポジトリになった。そして分散データ共有処理基盤の進化を背景にXMPPによるリアルタイム状態交換の場所としてインターネットは進化していくのか。

交換する物がドキュメントの時代はその書き手にはある一定の能力が求めれた。ドキュメントは単体としてある程度以上の意味がないと価値がないからである。しかしリアルタイムの時代には発信される情報自体にドキュメントの様な意味が必ずしも求められない。意味はシンクロニシティやタイムラインなどを総合して誰かインテリジェントな人や機械が決めれば良い。リアルに情報が発信されていればそれでいいのだ。

そういった意味では更なる情報爆発が加速される。Googleなどの検索サービスで自分の今に最適な情報を見つけるという動作も新たな情報爆発の時代にはそぐわなくなってくるような気がする。つまりインターネットには新たなメジャープレーヤーがデビューするという事になるかもしれない。

Google Waveの様なサービスが広がるといよいよ巨大壁掛けモニターが必要になってくるような気がする。世界の今この瞬間をどれだけ素早く把握できるかで勝負が決まるビジネスが出てくるような気がする。

そんな事を思った週末でした。
by hdknr.com

本が捨てられない

6月 13th, 2009

幼い頃から本が捨てられません。雑誌も捨てるのに躊躇します。そのため室内は本だらけ。実家から引っ越す際にあれこれ整理したのですが、本だけはあまり減りませんでした。未読の本の多さが目に付きます。

引っ越してからも本は増える一方。雑誌はあまり買わなくなったので増える量は少ないのですが、技術書、小説、マンガは増え続けます。学生の頃に買えなかったり、なくなく手放した本を買い戻したり大人買いしたりするので置き場に困ります。とうに本棚の許容量は越えているので床に積んでいます。

昔は書籍購入時はノートに何を買ったかメモっていたのですが、最近はメモしなくなったので同じ本を買うこともしばしば。大体文庫なので被害額は少ないのですが、昨今の文庫価格の上昇を考えると、穏便に済ますわけにはいきません。同じゲームまで重複したときは我ながらどうしたものか、と暫し考えたものです。

読了済みで自分の中で評価が低いものについては売ってしまってもいいかな、とも思うのですが未読の本が圧倒的に多いのでそういうわけにもいかず。どうせならまとめて売りさばいてしまいたいので1冊だけ売るということはできず(1冊だけ売りに行くという労力も問題)。

学生のころよりかは本への執着はないのですが、相変わらず本を捨てることができないことに変わりなく、本を捨てる勇気が欲しいものです。

室内写真撮ろうと思いましたがあまりの惨状に断念。公開すべきものではないです。今の部屋に越してきた時はまだ綺麗だったんですけどねぇ。定期的に整理してましたし。一度腑抜けると強力なきっかけがないとしっかりできません。

聞いてみる

6月 12th, 2009

先日、おつきあいのある方から葬儀の連絡を受けました。
告別式が14:00時からで受け付けは13:00からとなっていました。
県境を越えて峠を下った町なので1時に出て2時の告別式目指して予定をたてました。
いやまてよ 昔、地方のお通夜に行った際にこちらの準備と随分違う雰囲気に驚いた事があったので一応調べてみようと数人に聞いてみました。
聞いて良かった。
その地域では一般の方は2時の告別式ではなく1時の受付開始時刻めがけて行くのが正解でした。
1時に行ってみると早くも帰って来るが大勢いました。
この告別式よりも早く駆けつけてさっと帰るというのが重要なんだそうです。

冠婚葬祭は県境を越えたり、山一つ越えるだけで随分違います。
日本標準なんてものはないんです。

何歳になってもわからない事、知らない事 疑問に思う事は誰かに聞いてみる。
あらためて思いました。

10年後の広告はどうなっているか(6)

6月 11th, 2009

―広告を見ることを強いられない自由―

先日の広告閑話の中で、消費者は広告を見たいと言っていないのに、一方的に見せられてきたことを指摘しました。新聞記事を読もうとすると広告が載っている、テレビ番組を見ようとすると否応なくコマーシャルが出てくる。電車に乗ると中吊りポスターだらけ、と言うわけです。大量生産、大量販売の時代に突入して以来、消費者は自らの意思と関係なく、大量の広告メッセージにさらされてきたのです。

ところが、広告のじゅうたん爆撃がピークに達した1990年代から、この風潮に転機が訪れました。テレビ番組を録画したうえで、CMをカットして見る視聴スタイルが広がってきたのです。業界用語でいうザッピングです。そればかりではありません。メールによる広告は事前の許諾が必要とされたほか、雨あられと飛んでくる迷惑メールをカットするシステムも当たり前になりました。

広告メッセージを露出したい側と、それから逃れようとする側の攻防はまだまだ続くでしょう。媒体種類別の広告出稿量では、ウェブ系の比率が上がってきています。しかし、デジタル情報の領域になると、CMカットの技術開発も比較的やり易くなるのではないでしょうか。ウェブサイトから検索連動CMをカットするためのプログラムを無料でダウンロードできる日は遠くないでしょう。

こうなってくると、いくら広告主が広告メッセージを送りたいと何兆円もの予算を用意しても、受け手の防御網が発達すれば、効率的にそれを運用することができなくなります。防御網を張ることが難しい媒体、つまり電車の中吊りやスーパーの店頭広告などは、ますます引く手あまたになりそうです。このような環境は広告業者をより儲けさせるのか、逆風になるのか、うーん、微妙ですね。