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10年後の広告はどうなっているか(9)

水曜日, 8月 5th, 2009

広告業界でも人員整理の動きが目立つようになりました。まだ外資系企業が中心ですが。外資系の代理店では業績に即して社員の数を調整する傾向があるので、何とも言えませんが、聞き及ぶリストラのスケールから判断すると、何か根本的なことが起きている、と言う気がします。企業合併、提携、外注先の締め付けなども平行して行われています。

 

数年前から世界のマスコミ業界で起きていることは、伝統を誇る著名企業の売却や合併です。何か大きな構造変化がこの世界を揺り動かしているに違いありません。これまでのマスコミは、新聞にしてもテレビにしても、情報流通手段が大型化して新規参入が困難な状態が続いてきました。流通手段が寡占化したから、コンテンツ提供の総合化が行われ、巨大産業にのし上がってきました。

 

現在進行中の現象は、それの解体化ではないでしょうか。なにしろ、これまで巨大投資が必要で新規参入できなかった情報流通手段がタダになってしまったのです。これの意味するところは大きい。巨大輪転機も空にそびえるテレビ等も無用の長物になってしまうのです。独占的資産が、やっかいな負の資産になったらたいへんです。

 

誰でもタダで情報を発信できる時代が来ています。変化は不景気のせいで起きているのではなく、根本的にモードチェンジが起きていると考えるべきです。消費者はニュースから連載小説、料理レシピから旅行案内までなんでもありの情報総合商社から、不要なものを含めて一括購入しなくても、欲しいものをバラ買いできる時代になった、と言えます。

 

さて、マスコミがこうなってくると、広告はどうなるか。広告はマスコミに寄生して大きくなってきました。情報流通が解体すると、広告もそれに見合った寄生虫になってゆかねばなりません。大きな宿主には大きな寄生虫の生存が許されますが、解体した宿主にどう寄生すれば良いのでしょうか。情報流通の形態がどうなってゆくか、見守っているうちにジリ貧になっているのが現在の広告業と言えないでしょうか。

10年後の広告はどうなっているか(8)

水曜日, 7月 22nd, 2009

この前の「広告の対流通デモンストレーション効果」の項に付け加えたいことが一つあります。どこで読んだか、あるいはどこかで聞いたか、忘れましたが、あるとき、松下幸之助翁が「うちの広告はナショナルチェーンストアのご主人が見てくれればそれでええ」と言われたそうです。まさに広告の対流通デモンストレーション効果です。

 

テレビ番組「水戸黄門」を何十年間も単独スポンサーしたのも、電器屋のオッサンにはこれに勝るものはない、という信念があったのでしょうか。「♪明るいナショナル、♪明るいナショナル、♪ラジオ、テレビ何でも揃う」というCMソングも消費者にナショナルチェーンストアの品揃えが良いことを言っているように見えながら、実はお店のオッサンに「品揃えをしっかりしてね」と言っていたと理解すると、理屈が合ってきます。

 

街で人気者のオジサンがやっている小売店を特約店にすれば、品物が売れる。小売店に配貨されていない品物は売れない。店頭の在庫としてあれば、オジサンが何とか売ってきます。経営の神様、松下幸之助翁はこの広告の副次的効果が当時の松下電器にとってはメインの目的だったことを指摘されたわけです。広告がいわゆるディストリビューションの強化に役立つことがよく分かります。しかし、10年後に主要媒体となっているだろうウェブは、広告の副次的効果をメインの目的として使うほど強力に発揮できるでしょうか。

10年後の広告はどうなっているか(7)

水曜日, 7月 8th, 2009

―広告の対流通デモンストレーション効果―

 

昭和30年代に出版された、アメリカのジャーナリストによる「マディソン・アベニューUSA」という広告業界の裏事情を伝えるノンフィクション本に、概ねこういう記述がありました。曰く、ファッション業界の人にとっては、広告が雑誌の読者に見られることが目的なのではない。雑誌に出た広告を切り抜いて小売店に見せ、「ほら、こんな広告を出すから仕入れた方がお得ですよ」と言って、売り込むための手段に使っている、と。これが私の言う広告の対流通デモンストレーション効果です。

 

最近では、スーパーマーケットに売り込む営業さんが、バイヤーに対して「来月はTVスポットを1,000GRPも打つので、ぜひ月間特売に取り上げてください、などとやっています。スーパーの棚替えの時期になるとスーパーマーケット商品のテレビスポットが増え、店頭で商品が売れる8月夏休みにはテレビスポットが閑散期になるわけですね。

 

デモンストレーション効果は対流通ばかりではありません。消費者同士でも存在するのです。消費者も、出ている広告を見るとき、無意識ではありますが「この広告を何百万、何千万の人が見ているのだ」という、情報共有感覚をもって見ていることは、自分のテレビ視聴態度を反省してみれば分かります。このようなデモンストレーション副作用がテレビ広告の効果を増幅してきたことは否めません。この「情報共有感覚」は、テレビという媒体で最高潮に達しました。そもそもテレビは、情報共有感覚メディアなのです。それが典型的な「マスメディア」というものの真骨頂なのです。

 

消費者間における情報共有感覚は、広告の効果を増幅する作用をもっています。世の中の人々はこんなものが好きなんだ、とか、こんなものが若者の間で流行っているんだ、というような副次的情報をばら撒くからです。オープンな媒体と、クローズドな媒体といっても良いでしょう。情報共有感覚の多い順番に媒体をリストアップして見ます。まず、テレビですね。新聞はどうでしょうか。少なくとも、ほとんどすべての家庭で例外なく新聞を購読していた時代には、そうでしたね。電車の中吊り、ハイ、すごくオープンで、みんなが見ている感が強いですね。雑誌はどうでしょうか。新聞と同じで、これも部数によりけり、ということになります。街頭看板が繁華街のものと人通りのすくない住宅街のものとでは違うように、です。DM、これは何百万部送っても情報共有感覚が余りありません。こんな分析に基づいて、これからの媒体、ウェブを考えてみると、新しい視野が開けてくるかも知れませんね。あなたはどのようにお考えですか。

10年後の広告はどうなっているか(6)

木曜日, 6月 11th, 2009

―広告を見ることを強いられない自由―

先日の広告閑話の中で、消費者は広告を見たいと言っていないのに、一方的に見せられてきたことを指摘しました。新聞記事を読もうとすると広告が載っている、テレビ番組を見ようとすると否応なくコマーシャルが出てくる。電車に乗ると中吊りポスターだらけ、と言うわけです。大量生産、大量販売の時代に突入して以来、消費者は自らの意思と関係なく、大量の広告メッセージにさらされてきたのです。

ところが、広告のじゅうたん爆撃がピークに達した1990年代から、この風潮に転機が訪れました。テレビ番組を録画したうえで、CMをカットして見る視聴スタイルが広がってきたのです。業界用語でいうザッピングです。そればかりではありません。メールによる広告は事前の許諾が必要とされたほか、雨あられと飛んでくる迷惑メールをカットするシステムも当たり前になりました。

広告メッセージを露出したい側と、それから逃れようとする側の攻防はまだまだ続くでしょう。媒体種類別の広告出稿量では、ウェブ系の比率が上がってきています。しかし、デジタル情報の領域になると、CMカットの技術開発も比較的やり易くなるのではないでしょうか。ウェブサイトから検索連動CMをカットするためのプログラムを無料でダウンロードできる日は遠くないでしょう。

こうなってくると、いくら広告主が広告メッセージを送りたいと何兆円もの予算を用意しても、受け手の防御網が発達すれば、効率的にそれを運用することができなくなります。防御網を張ることが難しい媒体、つまり電車の中吊りやスーパーの店頭広告などは、ますます引く手あまたになりそうです。このような環境は広告業者をより儲けさせるのか、逆風になるのか、うーん、微妙ですね。

10年後の広告はどうなっているか(5)

水曜日, 5月 27th, 2009

テレビ出現以前に、加工食品などの低関心商品の広告がどうであったか、振り返ってみませんか。主婦向けの雑誌などにちょいちょい広告が出ることがあったり、食料品店の店頭に味の素のホーロー看板がぶら下がっていたりしても、一つの商品の知名度が短期的に上がるようなことはありませんでした。

 

日清サラダ油の商品名は、大正時代に「サラダに使えるほど精製度の高い高品質の食用油」をシンボライズする名前として現在の日清オイリオによって採用され、およそ100年間倦まずたゆまず使われることで、市場シェアナンバーワンの地位を獲得する一助となったのです。テレビスポットを2万GRP投入することで、1年間でそうなったのではありません。

 

歴史的に見て加工食品のライフサイクルは長いものが多く、お酒や味噌、醤油の醸造元が「嘉永元年創業」などと謳っているのはその証拠です。お菓子の銘柄でも、江戸時代の殿様が愛用された、といった曰くつきのものが珍しくありません。

 

このような景色を一変させたのが、テレビとスーパーマーケットという大量販売メカニズムです。今、急にスーパーマーケットが衰退することは考え難いが、同じ形で存続する保証はありません。テレビがすでに衰退の時代に突入していることは誰の眼にも明らかです。

 

何百年のライフサイクルをもつような商品を1年で普及させたり、3年で衰退させたりしたテレビって何だったのか。それは、キャプティブ・オーディエンスの状態を家庭で提供してくれる稀有の媒体であったと同時に、泣いたり、笑ったり、共感したり、高い心理的関与を演出できるとんでもない媒体だったのです。低関心商品すら、心理的関与度の高いCMに乗せて高い関心度、高い知名度をもたらしてくれる魔法の杖だったのです。

 

世の中のものごとは進化するのがふつうですから、テレビよりもっと効率の良い媒体が低関心商品の普及を助けてくれるようになると、誰もが期待するでしょうが、ほんとうにそうなるでしょうか。Before TVDuring TV、そしてこれから到来するAfter TVの時代。どう考えても、After TVの時代は、Before TVに少しばかり近づくことになりはしないでしょうか。

10年後の広告はどうなっているか(4)

水曜日, 5月 13th, 2009

広告でものを知らせたい、というのは提供する側の一方的な願望であって、受け手の消費者が広告して欲しいと言ったわけではありません。つまり、広告そのものを消費者が渇望したことはない。極端な言い方をすれば、広告は宿り木のようにジャーナリズムに寄生して、メーカー側のニーズを満たしてきたわけです。経済社会全体をうまく循環させる機能をはたしているのですが、基本的な消費者ウォンツ、ニーズが欠如しています。だから、寄生すべきジャーナリズムという木が枯れたときは存立が困難になります。

 

新聞・雑誌にしてもテレビにしても、ジャーナリズムそのものにたいしては消費者ニーズがあります。そして広告は、媒体料をジャーナリズムに供給することによって、寄生した宿主を養う役割も果たしてきたのです。木が弱ってくると、宿り木も弱ってくる。宿り木から栄養補給をしてもらっていた樹木そのものの勢いも衰えてきます。

 

言うまでもなくウェブの特徴は、無料で、かんたんに情報を入手できるところにあります。そしてウェブでは、これまでジャーナリズムが提供してきたエキスパート・オピニオン以外に、素人の集合知を集積・提供することが容易にできるので、参加型の情報の場が作りやすくなります。

 

紙や電波の媒体がウェブに取って代わられるのであれば、広告も新しい媒体に掲載すれば良いだけのことではないのか。確かにその通りですが、見たいコンテンツに乗せて、見たくないものを見せることに終始してきた広告は、新しい情報伝達手段とどう折り合いをつけてゆけば良いのか、急には答えが見つかりそうもありません。

 

ウェブが得意とする情報伝達方式は、検索されるキーワードに連動することで、関心領域を限定することには成功しそうです。しかし、同じ対象者に何回も同じメッセージを届けることにより知名、認知を形成するという、既成のマスコミに乗っかることで可能だったこと、広告の基本的な作用にかかわる部分が、どうすればウェブで出来るのか、少なくとも現在のところ見えてきていないのではないでしょうか。広告主による情報伝達ニーズが高まるにもかかわらず、適切な情報伝達手段が見つからない、という状態がしばらく続きそうです。

10年後の広告はどうなっているか(3)

水曜日, 4月 22nd, 2009

これまで2回のお話に基づいて考えると、こんな世界が広がるのではないか、と思われることを列記してみます。

 

1.   媒体の細分化が進行する、そしてその究極の姿は一人一媒体に近いものである、と言いました。一人一媒体は、媒体が無いのに近い状態で、江戸時代の口コミ社会が再現すると思ってもよいのではないでしょうか。ただし、ウェブが発達した超口コミ社会です。

 

   商品情報の入手にも、口コミが大いに関与するでしょう。あらゆる商品について、購入体験や

使用体験の情報が容易に入手できるでしょう。行ってきました、買ってみました、使ってみまし

た、作ってみました、食べてみました、などのレポートが重視され、商品購入の参考情報とさ

れます。ということは、口コミをトリガーする、フックのある新製品が求められるでしょう。また、

口コミをトリガーするような、商品についての関連情報が珍重されるでしょう。

 

商品やサービスを提供する側が自社のホームページで提供する情報も、いろいろな機能が付加されて高度化しているでしょうし、いわゆるマスコミチャンネル以外から得られる役立ち情報が広告から得られる情報を上回っているかもしれません。

 

2.   新製品発売告知など、当初の情報をプッシュ情報で、できる限りイノベーター、オピニオンリーダーに流し、後は口コミによって、商品情報が拡散してゆくのを助長する、という広告戦略が一般的になるのではないでしょうか。

 

ただし、新発売告知をはじめとして、プッシュ型情報提供が要求される場面は尽きないが、プ

ッシュ型情報を提供することが可能な媒体が、広告主の求めるオピニオンリーダー、イノベー

ター層(言うまでもなく、商品によって層がちがいます)への接触を可能にするかどうか、分か

りません。その意味では、セッツインユースの減少とともに、テレビもある特定の層にアプローチ

するためのセグメント媒体になっている可能性が強い。その傾向は、F2とかF3とか言ってマ

スメディアを自称している側が、現在、自ら作り出している、と言えなくもありません。

 

3.   知りたい情報を引き出すことが容易になるので、売る側にとっては脅威です。イメージづくりよ

りも実質的な商品性能の向上に、より多くの企業努力を傾注せざるを得なくなるでしょう。

 

高関心商品について、プッシュ情報の必要性が減少するでしょう。例えば自動車の情報は、

新発売告知を除けば、ほとんどがHPからプル情報で入手するようになるかもしれません。自

動車が多くの人にとって高関心商品であり続けるかどうかは疑問ですが、どんな商品でも、

それの購入を考えている人にとっては高関心商品たり得るのです。

 

4.   スーパーマーケットの店頭媒体など、新しい媒体が地位を確立している

 

食品、日用品など、スーパーマーケットで購入される商品は、現在のマス4媒体の衰退とともに、マーケティング手法の変更を余儀なくされるでしょう。効率的に消費者にアピールする媒体として、スーパーマーケット店頭におけるサイネージが注目されているでしょう。

 

5.   統計上、日本の広告費は減少している。

 

例えば日本最大の広告主、トヨタ自動車が年間広告予算約1000億円の3割程度を」削減する、ということが大いに話題になりました。市場が冷え切っているから広告費を削減する、という経営判断もあったでしょうが、そのほかに外部媒体を通じた広告宣伝を減らして、ホームページ等を通じた商品情報の提供をより充実させようという判断が当然あったのではないでしょうか。

 

いわゆるマス媒体の広告出稿量という意味における、日本の年間広告費は10年後には減少していると思われます。これは必ずしも広告主の情報提供ニーズが減少している、という意味ではなく、情報提供の形に変化がもたらされているということです。

 

6.   現在のような広告代理店のビジネスモデルは存続しない

 

マス媒体が縮小し、多様な形の情報提供が求められるようになっているとすれば、現在のような広告代理店のビジネスモデルは、成立しなくなっていると思われます。媒体扱いから入るコミッションを主な収益の柱にしている形態は、早急に修正しておかないと、立ち行かなくなるおそれがあります。

 

7.   広告主組織も、CIOを中心に構築しなおされる

 

広告部と広報部が企業の情報活動を仕切っている現状も、大きく変わらざるを得ないでしょう。複雑、多様化した情報環境に対応するために、企業は「チーフ・インフォメーション・オフィサー」を情報提供機能の中心となる役員として据え、その周りにIT、広告、広報の各機能部門を配置するようになるでしょう。

10年後の広告はどうなっているか(2)

水曜日, 4月 15th, 2009

そもそもこれまで隆盛を誇ってきたテレビは、人々に何を提供してきたのか。娯楽?暇つぶし?思うに、テレビの最大の役割は、人々に世の中の変化を共有、共感させることではなかったか。だからこそ、時代の寵児として熱狂的に歓迎され、人気を独占してきたのではなかったか。農家のおばあちゃんにも、沖合いに向かって航行している漁船の乗組員にも、いわゆる「社会の窓」を提供してきたのです。

 

その仮説は間違っています、と言われるとお話の展開に困るのですが、ここは、当たらずとも遠からず、としましょう。そこで当然つぎに出てくるのは、その役割はテレビが独占し続けるのでしょうか、という疑問ではないでしょうか。誰が考えたって答えは同じ、インターネットが強力な競争相手として登場していることに疑いの余地がありません。まだ農家のおばあちゃんには普及していないけれども、ウェブ年齢層は上へ上へと拡大中です。さて、このような社会的役割を果たしてゆく仕組みとして、これら新旧二つのエンジンが規模的に逆転するのは何時でしょうね。

 

ここまでは、社会の窓としての役割がテレビからウェブへ、分担割合に変化が生じつつあるというお話です。前回のブログで述べたように、インターネットの拡大は媒体の細分化を伴うということも事実です。細分化の究極の姿は、一人一媒体、つまりすべての人が何らかの形で情報を発信する、という社会です。別にSFの世界ではなく、かなりの程度まで、すでに事態は進展していると考えてよいのではないでしょうか。こうなると、商品やサービスに関する情報のやりとりは、送り手の立場から見るのと、受け手の立場から見るのとではまったく違ってきそうです。媒体の概念自体が変わってしまう、と言って良いでしょう。広告を職業としている人にとって、悪夢のような社会がついそこまで来ているかも知れないぞ、というわけです。

 

このほか、新しく登場したインターネットという情報伝達手段には、テレビになかった恐るべき能力がそなわっています。単に天気予報の放送予定時間にならなくても天気予報を見ることができる、といった類のことではありません。それは情報を蓄積するアーカイブ性と、蓄積されたた情報のうち、好きなものを好きなときに取り出すリトリーバル性です。ここんところが実は明日の広告を語る上で重要なポイントになりそうです。次回は、こういった新時代の媒体の特徴がどう広告に影響するか、たくさんの仮設を提示してみたいと思います。

 

10年後の広告はどうなっているか(1)

木曜日, 4月 9th, 2009

このテーマで書き始めたら、とても一気に書くことができない。時間をかけて考えながら書こう、というわけで、(1)としました。続きは来週になるか、再来週になるか。

 

いま、広告媒体が個性化、細分化、多様化の過程にあることは誰の眼にも明らかです。ウェブ媒体が伸びていますが、ウェブは一つのメジャー媒体でなく、それ自体が細分化の宿命をもっています。ウェブを中心とした細分化はさらに進み、さらにフリーペーパー、店頭媒体、アウトドア・サインボードなどほかの分野の多様化を誘発しながら進んでゆかざるを得ないでしょう。

 

一方で、テレビ、新聞など、メジャー媒体の勢力が低下しています。この低下現象がどこまで続くかが、明日の広告の姿に大きく影響するでしょう。これまでの50年間は、将来の歴史家が「テレビの半世紀」と呼ぶかもしれません。世界中が戦後の復興期で、商品にも、娯楽、情報にも渇望感がありました。そこへ技術的革新の成果として現れたテレビは、まさに時代の寵児となりました。広告媒体としての観点から見ると、消費者があこがれる商品の情報であろうが、低関心商品の情報であろうが、好きな回数だけプッシュ情報として消費者に届けるという前代未聞の広告技術を可能にしたのです。

 

いま、広告に携わっている人々は、多かれ少なかれ、このようなことが可能な環境の中で育ってきました。広告とはこんなものだ思っていたら、とんでもないことになるかも知れません。好きなだけプッシュ情報を流すことが可能でなくなった世界はどんなものか。続きはいずれまた。